弥生はこの学校に満足している様子だった。授業の雰囲気はとても良くて、先生たちは生徒に穏やかに接していて、子どもたちもしっかりしているようだ。総合的に見て、かなり良い印象を受けた。ただ、その場で二人の子供が入学することを決めず、「もうちょっと考えます」と伝えた。学校の担当者も快く了承して、彼女に連絡先を渡した。「うちの学校では送迎サービスもありますが、事前にお伝えしておきたいことがございます。保護者の中には、子どもたちが同じ車に乗るのを不安に感じられる方もおり、自分で送迎される方もいらっしゃいます」「そうなんですか。こちらで検討させていただきます」「はい、ご検討ください。それではお気をつけてお帰りください。お二人のお子さんもまたお会いしましょう」車に乗り込んだ後、弘次が弥生に尋ねた。「どう?この学校」「良さそうと思うけど、他の学校ももう少し見てみたいわ」「なるほど。いいよ」その後、二人はさらに他の学校を見学したが、どれも少し物足りない印象だった。衛生状態が今ひとつだったり、給食の内容がいまいちだったりと、いずれも決め手に欠ける。最後の見学が終わる頃には、ひなのが疲れ果て、弘次の腕の中でそのまま眠ってしまった。彼女の寝顔を見て、弥生は自分たちが今日は歩き回りすぎたことを気づいた。足を止めて、隣にいる陽平に尋ねた。「陽平ちゃん、疲れるでしょう?」陽平はとても気遣いができる子で、すでに疲れが見え隠れしていたにもかかわらず、弥生に気を遣い、平気そうに答えた。「いや、全然疲れてないよ」その言葉に、弥生はそっとかがんで彼を抱き上げた。「ママ......」「うん、ママが疲れちゃった。だからちょっと陽平を抱っこさせて」弥生の言葉に、陽平はそれ以上何も言えなくなり、大人しく弥生の腕の中に収まった。「大丈夫だよ。家まで遠くないから、ママが抱っこして連れて行くね」彼はそれ以上抵抗することもなく、静かに彼女に身を預けた。初めは目を開けて話していたが、次第に声が途絶えて、弥生が家の近くまで来た頃には、彼はすっかり眠りに落ちていた。彼の寝顔を見て、弥生は思わず微笑んだ。「疲れてないって言ったのに、こんなに早く寝ちゃって......」彼の鼻を軽く摘むと、陽平は「んん......」と鼻を鳴らし
情けない......弘次がこんなことを言うのは初めてではなかった。彼が言うたびに、彼女の心には痛みが走る。正直なところ、弘次は彼女にとても良くしてくれている。その心遣いは真心からのもので、こんなに尽くしてくれる人は、この世にもういないかもしれない。彼女の心も石でできているわけではない。彼が長年にわたって注いできた優しさは、彼女もすべて理解しているはずだ。もし二人の子どもがいなかったとしたら、もしかすると......彼と一緒になることを選んでいたかもしれない。しかし、彼女自身がもともとひとり親家庭で育った子どもだ。一人で子どもたちに与えられるものは限られており、それ以外のことに精力を割く余裕はない。つまり、子どもたち以外の誰かに、自分の時間や気持ちを分け与えることはできないのだ。こう考えながら、弥生は心の中で深くため息をついた。結局のところ、彼女は正直に話すことにした。「君は素晴らしい人よ。ずっとそうだ。でも......私は君の優しさを受け入れ続けるだけで、何も返せない」彼女の言葉を聞いて、弘次は淡い微笑みを浮かべながら答えた。「だったら少しだけ返してくれないか?弥生、僕が求めているのはほんの少しだ」彼女が黙り込むのを見ると、弘次は続けてこう言った。「信じられないなら試してみて。僕と一緒にいれば、君に負担をかけることは絶対にないことを保証する。君のことも、子どもたちのことも、僕が大切しているから」「それは無理よ」弥生は首を横に振る。「私は君に割く余力がないの」「そうしなくてもいいよ。君のままでいいんだ。したいことを自由にして、それだけでいい。僕はしっかりと支援するから」「それでも......」「ダメか?」弘次は真剣に考えた後、さらに提案した。「じゃあ試してみないか?3カ月だけでいい。僕と一緒にいて、良し悪しを試してくれない?」弥生は唇をかみしめながら答えた。「弘次、そんなこと言わないで」弘次は彼女を見つめ、「こんなに頼んでもダメか......じゃあ、もっと頑張るしかないな」と苦笑した。車のドアが開き、弘次は子どもたちを抱えたまま車に入った。弥生も急いで手伝いに向かった。車内では、二人の子どもたちが目を覚ました。ひなのは起きるなり、「お腹空いた」と言い出し
弥生は二人の子供たちを連れて部屋に入って、普段着に着替えた。彼女が去った後、弘次はさりげなく千恵を見て問いかけた。「今日はどうだった?」突然の質問に、千恵は少し戸惑った。「何のこと?」自分の意図を理解していないと察した弘次は、ヒントを与えるように言った。「昨晩のことだよ」その言葉に千恵の顔色がわずかに変わった。「昨晩のこと?どうして知ってるの?まさか弥生が話した?」昨晩のことを弘次に知られていると気づき、千恵の顔には一瞬困惑と怒りが浮かべた。彼女はついに感情を抑えきれず、苛立ちをあらわにした。「どういうことなの?一緒に住んでいるからって、私たちにはそれぞれ自由があるでしょう。お互い干渉しないって約束だったのに、なんで弥生は私のことをあなたに話すの?」その苛立ちを目の当たりにした弘次は一瞬黙り込んだが、そう言ったことが弥生に余計な負担を与えたことに気づいた。しかし、瑛介と千恵がこれ以上接触するのであれば、リスクが大きすぎる。もしもそんな状況が続けば、問題が発生すると確信していた。弘次の目が鋭く光った。彼は冷静さを保ちながら千恵に視線を向け、皮肉めいた笑いを浮かべた。「千恵、君たちはルームシェアしているだけど。君が夜中に外出すれば、彼女が心配するのは当然だ」千恵は頭を抱えて、困った表情を浮かべた。「心配してくれるのはわかるけど。でも、もう大人よ。自分の考えがあるのに、プライバシーのことを人に話すものか?」弘次は唇を引き締め、淡々と言った。「どうやら、僕に対する印象はあまり良くないようだね」その言葉にハッとした千恵は、自分が無意識に弘次を非難するようなことを言ってしまったことに気づき、慌てて謝罪した。「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの。ただ、少し自由に生活したいだけなのよ」今度、弘次は落ち着いた口調で言った。「君たちが一緒に生活している以上、いろいろなことを考慮する必要があるだろう。もし君がこれからも彼と接触するつもりなら、彼女と一緒に住むのはやめたほうがいいと思うぞ」その言葉に千恵は黙り込んだ。彼女は弘次の言うことに一理あると感じた。一緒に住むことで、自由が制限されるように感じ、彼女自身も不安になっていた。その後、彼女がどう答えるべきか悩んでいる間に、
千恵は緊張してきた。彼女は本来、瑛介が謝罪のために弥生に会いに来るという話を伝えるつもりだった。しかし、さっき弘次の言葉を聞いた後、わざわざそのことを話す必要がないように感じた。その考えに至った千恵は、少し気まずそうに笑った。「あのう、な、なんでもないの」それを聞いた弥生は、驚いた表情を浮かべた。「でも、帰ってきたとき、私に何か話があるって言ってたじゃない?」「そう、そうだったわ」千恵は慌てて説明した。「あの時は感情的になっていて、話したいことがあったけど、今はもうなくなったの」弥生は眉を少し上げた。「そうなの?」千恵は必死でうなずいた。彼女との付き合いはそれほど長くないが、弥生は千恵が嘘をつくときの癖をよく気づいていた。嘘をついているときは目が泳ぎ、首を振る仕草が鳥のように早くなる。だから、今の様子からして明らかに嘘をついているのが分かった。おそらく話したくないだけだろう、と弥生は心の中でため息をつき、それ以上は追及しなかった。「それなら、いいわ」千恵はまたしても何度も頷いた。弥生はエプロンを結び、肉を下処理していた。千恵は申し訳なさそうな様子で、急いで手伝おうとした。「私が切るわ」普段なら、弥生は素直に包丁を渡していたはずだ。しかし、これから話そうとしている内容を考えて、彼女は包丁を渡さず、自分で作業を続けた。「私がやるから大丈夫よ」「そう......わかったわ」千恵は隣に立ち、肩を落としてうつむいた。その姿を見た弥生は、一瞬考えた末、口を開いた。「それで?彼の連絡先を手に入れられたの?」突然の問いかけに、千恵は弘次に話した内容を思い出し、顔が曇った。それを見た弥生は、彼女が失敗したのだと思い、少し安心した。失敗したほうが、後々面倒が減るからだ。その考えがよぎり、弥生は静かに言った。「今朝、私が話したいことがあるって言ったでしょう?それは、彼に関することなの」「弥生!」千恵がいきなり声を上げて、彼女の名前を呼んだ。「今日、弘次と出かけてたよね?彼はあなたにすごく優しいわ。帰国したあなたのために家まで用意してくれたんでしょ?もし私があなたを引き留めてたら、あなたたちの関係の進展に影響が出るんじゃない?」その言葉を聞いて
千恵はすぐに無理やり笑みを浮かべて、子供たちに向けて微笑んだ。弥生は二人を一瞥し、頭を撫でた。「陽平ちゃん、ひなのちゃん、今日はとてもお利口さんだったね。少しお部屋で休んで、それからそれぞれ荷物をまとめてくれる?」隣にいた千恵はその言葉を聞いて、顔色が真っ青になり、唇を噛みしめた。二人の子供たちはその言葉を聞くと、すぐに弥生を見つめた。まさか、こんなに厳しい弥生を見たことはなかったのだ。ところが次の瞬間、弥生が微笑みながら言った。「明日は学校に行くんだからね」その言葉を聞いた子供たちはようやく安心して、荷物をまとめに行った。二人が部屋に戻った後、弥生は残っていたご飯をゆっくりと食べ終えた。一方、向かいに座っていた千恵は、子供たちに荷物をまとめさせるよう言われた時から、魂が抜けたように座り込んでいた。弥生が食事を終えて片付けを始める頃、千恵はようやく正気を取り戻し、慌てて謝罪した。「ごめんなさい」弥生は淡々と微笑んで答えた。「大丈夫よ。あなたも私のことを思ってのことでしょう。後で弘次に話しに行くから」千恵は、自分が言ったことで後悔していたが、弥生が弘次に話しに行くと言った以上、それ以上何も言えなかった。喉の奥に飲み込んだ言葉をぐっと抑え込んで、それ以上何も言わなかった。弥生は食卓を片付けて、キッチンを隅々まで掃除し、ゴミを捨てた。家の中に汚れが残っていないことを確認すると、自分の部屋に戻り荷物をまとめ始めた。引っ越してきたばかりだったので荷物はそれほど多くなく、簡単に荷造りを終えると、ベッドの端に腰掛けてホテルの予約をするためにスマホを取り出した。予約が終わる頃、陽平がドアを開けて入ってきた。「ママ」弥生はスマホを閉じ、微笑みながら答えた。「荷物はまとめた?」「まとめたよ、ママ」「うん、ひなのは?」「ひなのも終わったよ。部屋でママを待ってる」「そう、じゃあ行きましょうか」弥生は立ち上がり、キャリーバッグを引きながら部屋を出た。玄関を出ると、ちょうど千恵が現れた。彼女は弥生を見つめ、何か言いたげだったが言葉に詰まっていた。「もう出発するの?」「うん。今夜は近くのホテルに泊まるわ。明日学校に行くのに便利だから」弥生が怒っていないように見えるそ
ホテルに着いた時、時間はまだ早かった。弥生はスイートルームを1部屋借り、最初に半月分の賃貸手続きを行った。すべての手続きが完了した後、ホテルのスタッフが彼女を部屋まで案内した。「お客様、お手配いただいたスイートルームには屋外プールが付いています。ただし、冬のため、プールのエリアは利用できませんが。また、お子様をお連れですので、念のため閉鎖状態のままが良いかと思います」「分かりました。ありがとうございます」スタッフの細やかな配慮に感謝しながら、弥生は軽く会釈した。スイートルームは非常に快適だった。ドアを開けた瞬間、淡い香りが漂い、湿気も一切感じられなかった。スタッフは室内設備とプールエリアを点検し、問題がないことを確認すると部屋を後にした。弥生は必要なものを取り出して、適切な位置に置いた。それを見た二人の子供たちも彼女の周りをうろうろして手伝い始め、弥生が手を止めると、ようやく二人も動きを止めた。その後、二人は彼女の膝に飛び乗り、顔を上げて尋ねた。「ママ、おばさんとケンカしたの?」弥生は子供たちに大人のいざこざを知られたくなかったので、別の理由を挙げて答えた。「ひなの、ケンカなんてしていないよ。ただ、おばさんは自分だけのスペースが欲しいのよ。ほら、あなたたちだってそれぞれ自分の部屋で寝たいでしょ?」その説明に、ひなのは首をかしげた。「でも、私たちがあそこに住んでた時も、おばさんはママと一緒に寝てなかったよ?」「そうね、一緒には寝ていなかったけどね。あの家はおばさんが借りたものだし、彼女は家賃を受け取らなかったから、いつまでも居座るのはよくないでしょ?」この説明を聞いて、ひなのはようやく納得してなずいた。「うん、それはそうだね」しかし、一方の陽平は、終始黙っていた。彼の性格はひなのとは異なって、より多くを考えるタイプだった。弥生は優しい声で説明を続けた。「二人とも、あまり考えすぎないで。ママがどこへ行っても、あなたたちも一緒に行くでしょ?だから、安心してママについて来てね」二人を寝かしつけた後、弥生はノートパソコンを立ち上げて、今後の計画を立て始めた。ホテルでの生活は長続きできるものではないため、会社の近くで物件を探す必要があった。彼女は地図を見ながらエリアを検討し、
「どうして僕に言わない?また、徹夜したか?」「大したことじゃないし、わざわざ話す必要もないでしょ」その言葉に、弘次はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと言葉を発した。「それなら、どうして僕が用意した部屋に行かなかったんだ?ひなのは鍵をもう持っているのに」「それがひなのが受け取っただけで、私は受け取っていないから」「弥生……」「ところで、持ってきた朝食って?」弥生は弘次の手から冷めてしまった朝食を受け取り、それをキッチンで温め直し始めた。弘次は彼女の背中を見つめて、目を細めた。彼女が深夜にホテルに移動することを決めたのは、ある意味では自分の思惑もあったのだが、予想以上に彼女の行動が早く、一言も知らせてくれなかったことに苛立ちを覚えた。彼は心の中で自分を嘲笑しながら問いかけた。いつになったら僕は彼女の世界に入ることができるのだろうか?」翌朝昨夜、千恵はあまりよく眠れなかった。明け方にようやく眠りについたが、数時間しか眠れず、昼食の約束を気にして目を覚ました。驚くべきことに、昨日の別れ際、瑛介は自ら彼女に連絡先を聞いて、さらに今日の昼食の約束を提案してきたのだ。彼女が必ず友人を連れてくると約束すると、彼は満足げにその場を去った。しかし、今日になって弥生を連れて行けないと気づいた千恵は、後で適当に説明しようと心に決めた。弥生が言った注意事項は、すっかり彼女の頭から抜け落ちていた。身支度を整えて、時間を確認すると、完璧な姿の千恵は高級レストランへ向かった。このレストランには、以前友人と数回訪れたことがあった。受付で約束を伝えると、スタッフが上階の個室へ案内してくれた。「こちらのお部屋になります」ドアを開けた瞬間、すでに冷たく端正な姿勢で座っている瑛介の姿が目に飛び込んできた。その光景に驚いた千恵は、慌ててスマートフォンを取り出し、時間を確認した。彼女は約束の時間より30分も早く家を出たのだが、彼はそれよりも早く到着していた。約束の時間まであと20分もあるというのに。その事実に、千恵の瑛介への好感はますます高まった。「宮崎さん、こんにちは。こんなに早く来ていて驚きました」千恵は嬉しそうに挨拶をした。しかし、瑛介の視線は彼女には向けられず、代わりに彼女の後ろを探るよ
瑛介はレストランを出たとき、顔を曇らせていた。彼は千恵を利用して、弥生を引き出せると思っていたが、どうやらその目論見は外れたようだ。あの目を逸らす仕草を見る限り、自分の言葉すら彼女に伝えていないのだろう。瑛介はその場でスマホを取り出し、電話をかけた。「ちょっと、ある人を調べてくれないか」一方、千恵がようやく我に返り、彼を追いかけようとしたときには、瑛介の姿はすでに消えていた。仕方なく彼女はスマホを取り出し、瑛介に電話をかけた。電話はしばらく鳴った後、ようやく繋がった。「宮崎さん、さっきは一体どうしたんですか?友人が来なかったけど、本当にごめんなさい。騙すつもりはなかったんです。ただ、昨日の夜、彼女は彼氏と一緒に引っ越してしまったんです。友人の彼氏の前では、あなたのことを話しづらくて......」彼女がまだ言い終わらないうちに、電話の向こうから突然、鋭く耳障りな急ブレーキ音が響いた。それを聞いた千恵は驚き、声を張り上げた。「宮崎さん、大丈夫ですか?」しばらく沈黙が続いた後、冷たく怒りに満ちた声が電話越しに返ってきた。「彼氏?」千恵は反射的に答えた。「そ、そうです、彼氏......」プツン——電話の切断音が鳴り、千恵はようやく状況を理解し始めた。彼女はスマホを持ったまま、ぼんやりと立ち尽くした。瑛介の行動と言葉、それにその反応を思い返して、やっと最近あったことを理解したようになった。「ハックション!」弥生がくしゃみをすると、隣にいた弘次はすぐさまハンカチを差し出した。「大丈夫?」彼女は軽く鼻をすすり、弘次のハンカチを受け取ることなく、そのまま歩き続けた。賃貸会社のスタッフが先を歩きながら説明を続けた。「次はこちらの物件をご覧ください。南向きの大きな窓からは昼間には川の景色、夜には夜景が楽しめます。そして、3LDKに書斎付きです。この条件に最も合う物件ですが。ただし......」スタッフは一瞬言葉を詰まらせたが、そのまま言葉を飲み込んだ。弥生は部屋に足を踏み入れ、一通り見回した後、とても満足そうに頷いた。立地も良く、学校や会社から近い点も気に入ったようだ。「家賃はいくらですか?」「そうですね、この物件に入居するつもりですか?」スタッフは驚きの表情を浮
二時間後、飛行機は南市に到着した。事前に心の準備をしていたとはいえ、飛行機を降り、見慣れた空港の光景が目に入ると、弥生の指先は無意識に微かに震えた。五年前、彼女はここから去った。それから五年が経ったが、空港の様子はほとんど変わっていない。最後尾を歩く弥生の心は、ずっしりと重く感じられた。彼女が物思いにふけていると、前を歩いていた瑛介が彼女の遅れに気づき、足を止めて振り返った。だが弥生は気づかず、そのまま真正面からぶつかった。ドンッ。柔らかな額が、しっかりとした胸に衝突した。弥生は足を止め、ゆっくりと顔を上げると、瑛介の黒い瞳が目に飛び込んできた。彼は冷たい声で言った。「何をしている?」弥生は一瞬動きを止め、額を押さえながら眉をひそめた。「ちょっと考え事をしてたの」「何を?」弥生は額を押さえたまま、目を少しぼんやりとさせた。「おばあちゃんは、私を責めるかな?彼女の墓前に行ったら、歓迎してくれるかな?」瑛介はわずかに表情を変えた。数秒の沈黙の後、彼は低く静かな声で答えた。「前に言ったはずだ。おばあちゃんはずっと君に会いたがってた」会いたかったとしても?どれだけ会いたかったとしても、自分は孝行を果たすことができなかった。最期の時ですら、そばにいることができなかった。もし自分が逆の立場だったら、きっと私を恨むだろう。だが、おばあちゃんはとても優しい人だった。そんなことは思わないかもしれない......弥生は自分に言い聞かせるように、そっと息を吐いた。「行こう」空港を出る頃には、すでに夕方六時近くになっていた。空は灰色の雲に覆われ、今にも雨が降りそうだった。ホテルに着いたときには、すでに空気が湿り始めていた。弥生がフロントでチェックイン手続きをしていると、瑛介も一緒についてきた。「家には帰らないの?」彼女が尋ねると、瑛介は何気ない口調で答えた。「そこからお墓まで近い。朝起きてすぐ行けるから」それなら納得できる理由だったので、弥生もそれ以上何も言わなかった。二人はそれぞれ別々に部屋を取った。健司は瑛介と同室で、弥生は一人だった。部屋はちょうど向かい合わせになった。部屋に入ると、弥生は靴を脱ぎ、ふわふわのベッドに倒れ込んだ。外では
瑛介は解決策を弥生に提案した。彼の提案に気づくと、弥生は仕事の集中からふっと我に返り、瑛介を見た。「どうした?間違ってたか?」弥生は眉を寄せた。「休まないの?」瑛介はあくまで冷静に答えた。「うん、眠くないんだ」弥生はそれ以上何も言わず、再び仕事に戻ったが、彼の指摘した解決策を改めて考えてみると、それが最も適切な方法だったことに気づいた。彼女は軽く息をつき、言った。「邪魔しないで」それを聞いた瑛介は、目を伏せて鼻で笑った。「善意を踏みにじるとはな」「君の善意なんていらないわ」瑛介はその言葉に腹を立てたが、彼女が結局彼の提案を採用したのを見て、気が済んだ。そして心の中でひそかに冷笑した。ちょうどその時、客室乗務員が機内食を配りに来た。弥生は仕事に没頭していて、食事を取る時間も惜しんでいた。そんな中、瑛介の低い声がふと聞こえた。「赤ワインをもらおう」弥生はパソコンを使いながら、特に気に留めていなかった。だが、その言葉を聞いた途端、彼女はぴたりと手を止め、勢いよく顔を上げた。じっと瑛介を見つめ、冷静に言った。「まだ完治してないのに、お酒を飲むつもり?」瑛介は特に表情を変えずに返した。「ほぼ治った。少し飲むだけだ」その言葉に、弥生は呆れたように沈黙し、数秒後、客室乗務員に向かって言った。「ごめんないね。退院したばかりなので、お酒は控えないといけないんです。代わりに白湯をお願いできますか」客室乗務員は瑛介を見て、それから弥生を見て、一瞬戸惑ったが、最終的に頷いた。「はい、承知しました」「弥生、そこまで僕を制限する権利があるのか?」瑛介が低い声で抗議した。しかし弥生は無表情のまま、淡々と答えた。「私は今、君の隣の席に座っているの。もし君がお酒を飲んで体調を崩したら、私の仕事に影響するでしょう?飛行機を降りたら、好きなだけ飲めばいいわ」しばらくして、客室乗務員が温かい白湯を持ってきた。飛行機の乾燥した空気の中、湯気がわずかに立ち上った。瑛介は目の前の白湯をじっと見つめた。長時間のフライトで白湯を出されたのは彼の人生でこれが初めてだった。だが、不思議なことに、不快には感じなかった。ただ、問題は......自分からこの白湯を手に取るのが
弥生は瑛介に手を握られた瞬間、彼の手の冷たさにびっくりした。まるで氷を握っていたかのような冷たさ。彼女の温かい手首とあまりにも温度差があり、思わず小さく身震いしてしまった。そのまま無意識に、弥生は瑛介のやや青白い顔をじっと見つめた。二人の手が触れ合ったことで、当然ながら瑛介も彼女の反応に気づいた。彼女が座った途端、彼はすぐに手を引っ込めた。乗務員が去った後、弥生は何事もなかったかのように言った。「さっきは通さないって言ったくせに?」瑛介は不機嫌そうな表情を浮かべたが、黙ったままだった。だが、心の中では健司の作戦が案外悪くなかったと思っていた。彼がわざと拒絶する態度をとることで、弥生はかえって「彼が病気を隠しているのでは?」と疑い、警戒するどころか、むしろ彼に近づく可能性が高くなるという作戦だ。結果として、彼の狙い通りになった。案の定、少しの沈黙の後、弥生が口を開いた。「退院手続き、ちゃんと済ませたの?」「ちゃんとしたぞ。他に選択肢があったか?」彼の口調は棘があったが、弥生も今回は腹を立てず、落ち着いた声で返した。「もし完全に治ってないなら、再入院も悪くないんじゃない?無理しないで」その言葉に、瑛介は彼女をじっと見つめた。「俺がどうしようと、君が気にすることか?」弥生は微笑んだ。「気にするわよ。だって君は私たちの会社の投資家だもの」瑛介の目が一瞬で暗くなり、唇の血色もさらに悪くなった。弥生は彼の手の冷たさを思い出し、すれ違った客室乗務員に声をかけた。「すみません、ブランケットをいただけますか?」乗務員はすぐにブランケットを持ってきてくれた。弥生はそれを受け取ると、自分には使わず、瑛介の上にふわりとかけた。彼は困惑した顔で彼女を見た。「寒いんでしょ?使って」瑛介は即座に反論した。「いや、寒くはないよ」「ちゃんと使って」「必要ない。取ってくれ」弥生は眉を上げた。「取らないわ」そう言い終えると、彼女はそのまま瑛介に背を向け、会話を打ち切った。瑛介はむっとした顔で座ったままだったが、彼女の手がブランケットを引くことはなく、彼もそれを払いのけることはしなかった。彼はそこまで厚着をしていなかったため、ブランケットがあると少し温かく感じた。
「どうした?ファーストクラスに来たら、僕が何かするとでも思ったのか?」弥生は冷静にチケットをしまいながら答えた。「ただ節約したいだけよ。今、会社を始めたばかりなのを知ってるでしょ?」その言葉を聞いて、瑛介の眉がさらに深く寄せられた。「僕が投資しただろう?」「確かに投資は受けたけど、まだ軌道には乗っていないから」彼女はしっかりと言い訳を用意していたらしい。しばらくの沈黙の後、瑛介は鼻で笑った。「そうか」それ以上何も言わず、彼は目を閉じた。顔色は相変わらず悪く、唇も蒼白だった。もし彼が意地を張らなければ、今日すぐに南市へ向かう必要はなかった。まだ完全に回復していないのに、こんな無理をするのは彼自身の選択だ。まあ、これで少しは自分の限界を思い知るだろう。ファーストクラスの乗客には優先搭乗の権利がある。しかし弥生にはそれがないため、一般の列に並ぶしかなかった。こうして二人は別々に搭乗することになった。瑛介の後ろについていた健司は、彼の殺気立った雰囲気に圧倒されながらも、提案した。「社長、ご安心ください。機内で私が霧島さんと席を交換します」だが、瑛介の機嫌は依然として最悪だった。健司はさらに説得を続けた。「社長、霧島さんがエコノミー席を取ったのはむしろ好都合ですよ。もし彼女がファーストクラスを買っていたとしても、社長の隣とは限りません。でも、私は違います。私が彼女と席を交換すれば、彼女は社長の隣になります。悪くないと思いませんか?」その言葉を聞いて、瑛介はしばし考え込んだ。そして最終的に納得した。瑛介はじっと健司を見つめた。健司は、彼が何か文句を言うかと思い、身構えたが、次に聞こえたのは軽い咳払いだった。「悪くない。でも、彼女をどう説得するかが問題だ」「社長、そこは私に任せてください」健司の保証があったとはいえ、瑛介は完全に安心はできなかった。とはいえ、少なくとも飛行機に乗る前ほどのイライラは消えていた。彼の体調はまだ万全ではなかった。退院できたとはいえ、長時間の移動は負担だった。感情が高ぶると胃の痛みも悪化してしまうはずだ。午後、弥生のメッセージを受け取った時、瑛介はちょうど薬を飲み終えたばかりだった。その直後に出発したため、車の中では背中に冷や汗
もし瑛介の顔色がそれほど悪くなく、彼女への態度もそれほど拒絶的でなかったなら、弥生は疑うこともなかっただろう。だが今の瑛介はどこか不自然だった。それに、健司も同じだった。そう考えると、弥生は唇を引き結び、静かに言った。「私がどこに座るか、君に決められる筋合いはないわ。忘れたの?これは取引なの。私は後ろに座るから」そう言い終えると、瑛介の指示を全く無視して、弥生は車の後部座席に乗り込んだ。車内は静寂に包まれた。彼女が座った後、健司は瑛介の顔色をこっそり伺い、少し眉を上げながら小声で言った。「社長......」瑛介は何も言わなかったが、顔色は明らかに悪かった。弥生は彼より先に口を開いた。「お願いします。出発しましょう」「......はい」車が動き出した後、弥生は隣の瑛介の様子を窺った。だが、彼は明らかに彼女を避けるように体を窓側に向け、後頭部だけを見せていた。これで完全に、彼の表情を読むことはできなくなった。もともと彼の顔色や些細な動きから、彼の体調が悪化していないか確認しようとしていたのに、これでは何も分からない。だが、もう数日も療養していたのだから大丈夫だろうと弥生は思った。空港に到着した時、弥生の携帯に弘次からの電話が入った。「南市に行くのか?」弘次は冷静に話しているようだったが、その呼吸は微かに乱れていた。まるで走ってきたばかりのように、息が整っていない。弥生はそれに気づいていたが、表情を変えずに淡々と答えた。「ええ、ちょっと行ってくるわ。明日には帰るから」横でその電話を聞いていた瑛介は、眉をひそめた。携帯の向こう側で、しばらく沈黙が続いた後、弘次が再び口を開いた。「彼と一緒に行くのか?」「ええ」「行く理由を聞いてもいいか?」弥生は後ろを振り返ることなく、落ち着いた声で答えた。「南市に行かないといけない大事な用があるの」それ以上、詳細は語らなかった。それを聞いた弘次は、彼女の意図を悟ったのか、それ以上問い詰めることはしなかった。「......分かった。気をつけて。帰ってきたら迎えに行くよ」彼女は即座に断った。「大丈夫よ。戻ったらそのまま会社に行くつもりだから、迎えは必要ないわ」「なんでいつもそう拒むんだ?」弘次の呼吸は少
「そうなの?」着替えにそんなに慌てる必要がある?弥生は眉間に皺を寄せた。もしかして、また吐血したのでは?でも、それはおかしい。ここ数日で明らかに体調は良くなっていたはずだ。確かに彼の入院期間は長かったし、今日が退院日ではないのも事実だが、彼女が退院を促したわけではない。瑛介が自分で意地を張って退院すると言い出したのだ。だから、わざわざ引き止める気も弥生にはなかった。だが、もし本当にまた吐血していたら......弥生は少し後悔した。こんなことなら、もう少し様子を見てから話すべきだったかもしれない。今朝の言葉が彼を刺激したのかもしれない。彼女は躊躇わず、寝室へ向かおうとした。しかし、後ろから健司が慌てて止めようとしていた。弥生は眉をひそめ、ドアノブに手をかけようとした。その瞬間、寝室のドアがすっと開いた。着替えを終えた瑛介が、ちょうど彼女の前に立ちはだかった。弥生は彼をじっと見つめた。瑛介はそこに立ち、冷たい表情のまま、鋭い目で彼女を見下ろしていた。「何をしている?」「あの......体調は大丈夫なの?」弥生は彼の顔を細かく観察し、何か異常がないか探るような視線を向けた。彼女の視線が自分の体を行き来するのを感じ、瑛介は健司と一瞬目を合わせ、それから無表情で部屋を出ようとした。「何もない」数歩進んでから、彼は振り返った。「おばあちゃんに会いに行くんじゃないのか?」弥生は唇を引き結んだ。「本当に大丈夫?もし体がしんどいなら、あと二日くらい待ってもいいわよ」「必要ない」瑛介は彼女の提案を即座に拒否した。意地を張っているのかもしれないが、弥生にはそれを深く探る余裕はなかった。瑛介はすでに部屋を出て行ったのだ。健司は気まずそうに促した。「霧島さん、行きましょう」そう言うと、彼は先に荷物を持って部屋を出た。弥生も仕方なく、彼の後に続いた。車に乗る際、彼女は最初、助手席に座ろうとした。だが、ふと以前の出来事を思い出した。東区の競馬場で、弥生が助手席に座ったせいで瑛介が駄々をこね、出発できなかったことがあった。状況が状況だけに、今日は余計なことをせず、後部座席に座ろうとした。しかし、ちょうど腰をかがめた時だった。「前に座れ」瑛介の冷たい声が
健司はその場に立ち尽くしたまま、しばらくしてから小声で尋ねた。「社長、本当に退院手続きをするんですか?まだお体のほうは完全に回復していませんよ」その言葉を聞いた途端、瑛介の顔色が一気に険しくなった。「弥生がこんな状態の僕に退院手続きをしろって言ったんだぞ」健司は何度か瞬きをし、それから言った。「いやいや、それは社長ご自身が言ったことじゃないですか。霧島さんはそんなこと、一言も言ってませんよ」「それに、今日もし社長が『どうして僕に食事を持ってくるんだ?』って聞かなかったら、霧島さんは今日、本当の理由を話すつもりはなかったでしょう」話を聞けば聞くほど、瑛介の顔色はどんどん暗くなっていく。「じゃあ、明日は?あさっては?」「社長、僕から言わせてもらうとですね、霧島さんにずっと会いたかったなら、意地になっても、わざわざ自分から話すべきじゃなかったと思いますよ。人って、時には物事をはっきりさせずに曖昧にしておく方がいい時もあるんです」「そもそも、社長が追いかけているのは霧島さんですよね。そんなに何でも明確にしようとしてたら、彼女を追いかけ続けることなんてできないでしょう?」ここ数日で、健司はすっかり瑛介と弥生の微妙な関係に慣れてしまい、こういう話もできるようになっていた。なぜなら、瑛介は彼と弥生の関係について、有益な助言であれば怒らないと分かっていたからだ。案の定、瑛介はしばらく沈黙したまま考え込んだ。健司は、彼が話を聞き入れたと確信し、内心ちょっとした達成感を抱いた。もしかすると、女性との関係に関しては、自分の方が社長より経験豊富なのかもしれない。午後、弥生は約束通り、瑛介が滞在したホテルの下に到着した。到着したものの、彼女は中には入らず、ホテルのエントランスで客用の長椅子に腰掛けて待つことにした。明日飛行機で戻るつもりだったため、荷物はほとんど持っていなかった。二人の子どものことは、一時的に千恵に頼んだ。最近はあまり連絡を取っていなかったが、弥生が助けを求めると、千恵はすぐに引き受け、彼女に自分の用事に専念するよう言ってくれた。それにより、以前のわだかまりも多少解けたように思えた。弥生はスマホを取り出し、時間を確認した。約束の時間より少し早く着いていた。彼女はさらに二分ほど待った
瑛介は眉がをひそめた。「どういうこと?」話がここまで進んだ以上、弥生は隠すつもりもなかった。何日も続いていたことだからだ。彼女は瑛介の前に歩み寄り、静かに言った。「この数日間で、体調はだいぶ良くなったんじゃない?」瑛介は唇を結び、沈黙したまま、彼女が次に何を言い出すかを待っていた。しばらくして、弥生はようやく口を開いた。「おばあちゃんに会いたいの」その言葉を聞いて、瑛介の目が細められた。「それで?」「だから、この数日間君に食事を運んで、手助けをしたのは、おばあちゃんに会わせてほしいから」瑛介は彼女をしばらくじっと見つめたあと、笑い出した。なるほど、確かにあの日、弥生が泣き、洗面所から出てきた後、彼女はまるで別人のように変わっていた。わざわざ見舞いに来て、さらに食事まで作って持って来てくれるなんて。この数日間の彼女の行動に、瑛介は彼女の性格が少し変わったのかと思っていたが、最初から目的があったということか。何かを思い出したように、瑛介は尋ねた。「もしおばあちゃんのことがなかったら、君はこの数日間、食事なんて作らなかっただろう?」弥生は冷静なまま彼を見つめた。「もう食事もできるようになって、体もだいぶ良くなったんだから、そこまで追及する必要はないでしょ」「ふっ」瑛介は冷笑を浮かべた。「君にとって、僕は一体どんな存在なんだ?おばあちゃんに会いたいなら、頼めば良いだろう?僕が断ると思ったのか?」弥生は目を伏せた。「君が断らないという保証がどこにあるの?」当時おばあちゃんが亡くなった時、そばにいることができなかった。でも、何年も経った今なら、せめて墓前に行って、一目見ることくらいは許されるはずだと弥生は考えていた。瑛介は少し苛立っていた。彼女がこの数日間してきたことが、すべて取引のためだったと知ると、胸が締め付けられるように感じた。無駄に期待していた自分が馬鹿みたいだ。そう思うと、瑛介は落胆し、目を閉じた。なるほど、だから毎日やって来ても、一言も多く話してくれなかったわけだ。少し考えたあと、彼は決断した。「退院手続きをしてくれ。午後に連れて行くよ」その言葉を聞いても、弥生はその場から動かなかった。動かない様子を見て、瑛介は目を開き、深く落ち着
この鋭い言葉が、一日中瑛介の心を冷たくさせた。完全に暗くなる頃、ようやく弥生が姿を現した。病室のベッドに座っていた瑛介は、すごく不機嫌だった。弥生が自分の前に座るのを見て、瑛介は低い声で問いかけた。「なんでこんなに遅かったんだ?」それを聞いても、弥生は返事をせず、ただ冷ややかに瑛介を一瞥した後、淡々と言った。「道が混まないとでも思っているの?食事を作るのにも時間がかかるでしょ?」彼女の言葉を聞いて、瑛介は何も言えなくなった。しばらくして、弥生が食べ物を彼に渡すと、瑛介は沈んだ声で言った。「本当は、君が来てくれるだけでいいんだ。食事まで作らなくても......」「私が作りたかったわけではないわ」弥生の冷ややかな言葉に、瑛介の表情がわずかに変わった。「じゃあ、なぜ作った?」しかし弥生はその問いには答えず、ただ立ち上がって片付け始めた。背を向けたまま、まるで背中に目があるかのように彼に言った。「さっさと食べなさい」その言葉を聞き、瑛介は黙って食事を済ませた。片付けを終えた弥生は無表情のまま告げた。「明日また来るわ」そして、瑛介が何かを言う前に、早々と病室を後にした。残された瑛介の顔からは、期待が薄れていくのが見て取れた。傍にいた健司も、弥生がこんなにも淡々と、義務のようにやって来て、また早々と去っていくことに驚いていた。「彼女はなぜこんなことをするんだ?僕の病気のせいか?」瑛介が問いかけても、健司は何も答えられなかった。彼自身も、弥生の真意を掴めずにいたからだ。その後の数日間も、弥生は変わらず食事を運んできた。初めは流動食しか食べられなかった瑛介も、徐々に半固形の食事を口にできるようになった。そのたびに、弥生が作る料理も少しずつ変化していった。彼女が料理に気を配っていることは明らかだった。だが、その一方で、病室での態度は冷淡そのもの。まるで瑛介をただの患者として扱い、自分は決められた業務をこなす看護師であるかのようだった。最初はかすかに期待を抱いていた瑛介も、やがてその希望を捨てた。そして三日が過ぎ、四日目の朝、いつものように弥生が食事を持って来たが、瑛介は手をつけずにじっと座っていた。いつもなら時間が過ぎると弥生は「早く食べて」と促すが、今日は彼の方から先に口を開いた